参考1: 校註 古事記 - 青空文庫
参考2: 現代語譯 古事記 - 青空文庫
参考3: 歴代天皇事典 - 高森明勅監修、PHP文庫

断りのない引用は参考1からのものです。


今回は四道将軍です。

古事記だと三人しか登場しませんが、日本書紀では四人登場します。

四道将軍 - Wikipediaより

四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す[1]。

少々間が空いたので確認ですが、崇神天皇は御眞木入日子印惠(みまきいりひこいりえ)の命というのでした。下の歌で出てきます。

 またこの御世に、大毘古の命を高志の道に遣し、その子建沼河別の命を東の方十二道に遣して、その服はぬ人どもを言向け和さしめ、また日子坐の王をば、旦波の國に遣して、玖賀耳の御笠(こは人の名なり。)を殺(と)らしめたまひき。

崇神天皇の時代に、オオビコの命を越(コシ)つまり北陸地方に派遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東海道など東方十二道に派遣して、朝廷に従わないものたちを帰順させ(注、言向け和すというのは国譲りのところでも出てきた言葉)、ヒコイマスノミコを丹波に派遣してクガミミノミカサを討伐させた。

 かれ大毘古の命、高志の國に罷り往でます時に、腰裳服せる少女、山代の幣羅坂に立ちて、歌よみして曰ひしく、

オオビコの命が北陸に向かう途中、山城(京都府北部)のヘラ坂で腰に裳をつけている少女が歌をよんでいて

御眞木入日子はや、
御眞木入日子はや、
おのが命を 竊(ぬす)み殺(し)せむと、
後(しり)つ戸よ い行き違(たが)ひ
前(まへ)つ戸よ い行き違ひ
窺はく 知らにと、
御眞木入日子はや。  (歌謠番號二三)

ミマキイリヒコ様や

ミマキイリヒコ様や

ご自分の命がひそかに狙われて

後ろの戸、前の戸に潜むものあるを知らずや

ミマキイリヒコ様や

と歌ひき。ここに大毘古の命、怪しと思ひて、馬を返して、その少女に問ひて曰はく、「汝(いまし)がいへる言は、いかに言ふぞ」と問ひしかば、少女答へて曰はく、「吾(あ)は言ふこともなし。ただ歌よみしつらくのみ」といひて、その行く方も見えずして忽に失せぬ。かれ大毘古の命、更に還りまゐ上りて、天皇にまをす時に、天皇答へて詔りたまはく、「こは山代の國なる我が庶兄(まませ)、建波邇安(たけはにやす)の王の、邪(きたな)き心を起せる表(しるし)ならむ。伯父、軍を興して、行かさね」とのりたまひて、丸邇(わに)の臣(おみ)の祖、日子國夫玖(ひこくにぶく)の命を副へて、遣す時に、すなはち丸邇坂(わにさか)に忌瓮(いはひべ)を居(す)ゑて、罷り往でましき。

と歌っていた。オオビコの命は怪しいことよと思い、馬を返して少女に「お前が言うことは、いったいどういうことだね」と問うと、少女は「私は何も言っていません、ただ歌をよんでいるだけ」と言い残して忽然と消えてしまった。

オオビコの命は急いで大和に帰り、このことを天皇に奏上したところ、天皇はお答えになって「これは山城にいる私の異母兄、タケハニヤスが邪な心を抱いているしるしであろう。叔父御よ、軍をおこして行ってくれませんか。」と仰って、丸邇の臣の祖である、ヒコクニブクの命を副将としてかの地に遣わすことになった。そのときにオオビコの命たちは丸邇坂で清めた器に捧げ物をして神に戦勝祈願をして出発した。

(コメント)オオビコの命は孝元天皇の子で開化天皇の兄弟。

 ここに山代の和訶羅(わから)河に到れる時に、その建波邇安(たけはにやす)の王、軍を興して、待ち遮り、おのもおのも河を中にはさみて、對(む)き立ちて相挑みき。かれ其地に名づけて、伊杼美(いどみ)といふ。(今は伊豆美といふ。)ここに日子國夫玖(ひこくにぶく)の命、「其方(そなた)の人まづ忌矢(いはいや)を放て」と乞ひいひき。ここにその建波邇安の王射つれどもえ中(あ)てず。ここに國夫玖の命の放つ矢は、建波邇安の王を射て死(ころ)しき。かれその軍、悉に破れて逃げ散(あら)けぬ。ここにその逃ぐる軍を追ひ迫(せ)めて、久須婆(くすば)の渡(わたり)に到りし時に、みな迫(せ)めらえ窘(たしな)みて、屎(くそ)出でて、褌(はかま)に懸かりき。かれ其地に名づけて屎褌(くそはかま)といふ。(今は久須婆といふ。)またその逃ぐる軍を遮りて斬りしかば、鵜のごと河に浮きき。かれその河に名づけて、鵜河といふ。またその軍士(いくさびと)を斬り屠(はふ)りき。かれ、其地に名づけて波布理曾能(はふりその)といふ。かく平(ことむ)け訖(お)へて、まゐ上りて覆奏しき。

さて山城のワカラ河(参考1の注に木津川の別名とある)につくと、件のタケハニヤスの王が軍を展開して待ち構えていたので、河をはさんで互いに挑む(対峙する)ことになった。そこでその地をイドミという。(今はイズミという。)ここでヒコクニブクの命は「まずそちらから清め矢を放て」といった。ところがタケハニヤスは当てることができなかった。ヒコクニブクの命の矢はタケハニヤスに命中して倒してしまったので、その軍は逃げ乱れて四散してしまった。敗走兵を追撃してクスバの渡(参考1の注に淀川の渡とある)に到ったときに、せっぱつまった敗走兵たちは糞をもらしてそれが袴にかかってしまった。それでその地をクソハカマという。(今は久須婆という。)さらに敗走兵を切りすてると鵜のように河に浮いたので、その河を鵜河という。またその兵士たちを切り屠った地をハフリソノという(現在の精華町のあたり)。このようにその地を平定したので、大和に帰って事の次第を奏上した。

 かれ大毘古の命は、先の命のまにまに、高志の國に罷り行でましき。ここに東の方より遣しし建沼河別(たけぬなかはわけ)、その父大毘古と共に、相津(あひづ)に往き遇ひき。かれ其地(そこ)を相津(あいづ)といふ。ここを以ちておのもおのも遣さえし國の政を和(やわ)し言向けて、覆奏しき。

さらにオオビコの命は先の命令に従って北陸へ遠征した。ここに東方に派遣されたタケヌナカハワケと行き会うことになったので、その地を会津という。こうして四道将軍はそれぞれの軍旅を終えて崇神天皇に平定の由を奏上した。

 ここに天の下平(やわ)ぎ、人民(おほみたから)富み榮えき。ここに初めて男(をとこ)の弓端(ゆはず)の調(みつき)、女(をみな)の手末(たなすゑ)の調(みつき)を貢(たてまつ)らしめたまひき。かれその御世を稱(たた)へて、初(はつ)國知らしし、御眞木(みまき)の天皇とまをす。またこの御世に、依網(よさみ)の池を作り、また輕(かる)の酒折(さかをり)の池を作りき。

天下は平定され国民は富み栄えた。そして男には猟の獲物を、女には手芸の品を貢がせて初の税制を定めた。この崇神天皇の御代を称えて、初めて国を治めたミマキの天皇という。(すなわちハツクニシラススメラミコト。)また崇神天皇は灌漑のために依網(参考1によると大阪市東成区)の池、輕の酒折(奈良県高市郡)の池を作った。

 天皇、御歳一百六十八(ももぢあまりむそぢやつ)歳、(戊寅の年の十二月に崩りたまひき。)御陵は、山の邊の道の勾(まがり)の岡の上(へ)にあり。

天皇は、一六八歳、戊寅の年の十二月に崩御された。御陵は山の邊の道の勾の岡の上(奈良県磯城郡)にある。

(コメント) ハツクニシラススメラミコトというのは神武天皇と崇神天皇の美称ですが漢字が違います。

  • 始馭天下之天皇 = 神武天皇
  • 所知初國(御眞木)天皇 = 崇神天皇

調べてみると諸説あって、崇神天皇を神格化したのが神武天皇であるという説もあるようです。何にしても崇神天皇こそ大和政権の基礎を築いた(実在の)人物であるといえるでしょう。