参考1: 校註 古事記 - 青空文庫
参考2: 現代語譯 古事記 - 青空文庫
参考3: 歴代天皇事典 - 高森明勅監修、PHP文庫

断りのない引用は参考1からのものです。


今回で垂仁天皇の回は終わりです。京都御所の紫宸殿の「右近橘(うこんのたちばな)、左近桜(さこんのさくら)」の橘の由来。

「時じく」は「非時」と書きますが、「永遠の」、「不変の」といった意味でしょう。ここでは不老不死としました。

 また天皇、三宅(みやけ)の連(むらじ)等が祖、名は多遲摩毛理(たぢまもり)を、常世(とこよ)の國に遣して、時じくの香(かく)の木(こ)の實(み)を求めしめたまひき。かれ多遲摩毛理(たぢまもり)、遂にその國に到りて、その木の實を採りて、縵八縵矛八矛(かげやかげほこやほこ)を、將(も)ち來つる間に、天皇既に崩(かむあが)りましき。ここに多遲摩毛理(たぢまもり)、縵四縵矛四矛(かげよかげほこよほこ)を分けて、大后(おほきさき)に獻り、縵四縵矛四矛(かげよかげほこよほこ)を、天皇の御陵の戸に獻り置きて、その木の實を擎(ささ)げて、叫び哭(おら)びて白さく、「常世の國の時じくの香(かく)の木の實を持ちまゐ上りて侍(さもら)ふ」とまをして遂に哭(おら)び死にき。その時じくの香(かく)の木の實は今の橘なり。

垂仁天皇は三宅の連の祖であるタジマモリを海外に遣わして不老不死の力ありという木の実を探させた。

タジマモリはついにある国で木の実を発見し、その木の実を採り、葉の付いた枝、葉を落とした枝をそれぞれ八本づつ持ち帰ることとなった。しかしその間に垂仁天皇はすでに崩御されていた。

タジマモリは持ち帰った枝の半分を大后に奉り、またその半分を天皇の御陵の戸に奉った。そして御陵に木の実を捧げ、慟哭して「常世国の時じくの香の木の実を持ち帰りて候う」と叫び憤死した。

時じくの香の木の実は今の橘である。

 この天皇、御年一百五十三(ももちまりいそぢみつ)歳、御陵(みはか)は菅原(すがはら)の御立野(みたちの)の中にあり。

 またその大后(おほきさき)比婆須(ひばす)比賣の命の時、石祝作(いしきつくり)を定め、また土師部(はにしべ)を定めたまひき。この后は狹木(さき)の寺間(てらま)の陵に葬(をさ)めまつりき。

垂仁天皇は158歳で崩御され、御陵は現在の菅原の御立野(参考1の注、奈良県生駒市)にある。

大后のヒバス姫の時代に石祝作(参考1の注、石棺を作る部族)を定め、土師部(埴輪土器を作る部族、以下のコメント参照)を定めた。后の御陵は狹木の寺間(参考1の注、奈良県生駒市)にある。

(コメント)

以下のリンク先にも記述がありますが、参考3にも「ヒバス姫命が亡くなると、日本の相撲の元祖といわれる野見宿禰(のみのすくね)が土偶をつくり、殉死する人の代わりにした。これが埴輪の起源といわれる。」とあります。

土師氏 - Wikipediaより

古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。

大阪府藤井寺市、三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた所で、その名がついた。道明寺天満宮の前身は土師神社であり、道明寺は土師氏氏寺である。