参考1: 校註 古事記 - 青空文庫
参考2: 現代語譯 古事記 - 青空文庫
参考3: 歴代天皇事典 - 高森明勅監修、PHP文庫

断りのない引用は参考1からのものです。


垂仁天皇はサホ姫の産んだホムチワケの御子をたいそう可愛いがります。

 かれその御子を率(ゐ)て遊ぶ状(さま)は、尾張の相津なる二俣榲(ふたまたすぎ)を二俣小舟(ふたまたをぶね)に作りて、持ち上り來て、倭の市師(いちし)の池輕(かる)の池に浮けて、その御子を率(ゐ)て遊びき。然るにこの御子、八拳鬚(やつかひげ)心前(むなさき)に至るまでにま言(こと)とはず。かれ今、高往く鵠(たづ)が音を聞かして、始めてあぎとひたまひき。ここに山邊(やまべ)の大鶙(おほたか)(こは人の名なり。)を遣して、その鳥を取らしめき。かれこの人、その鵠(たづ)を追ひ尋ねて、木(き)の國より針間(はりま)の國に到り、また追ひて稻羽(いなば)の國に越え、すなはち旦波(たには)の國多遲麻(たぢま)の國に到り、東の方に追ひ𢌞(まわ)りて、近(ちか)つ淡海(あふみ)の國に到り、三野(みの)の國に越え、尾張(をはり)の國より傳(つた)ひて科野(しなの)の國に追ひ、遂に高志(こし)の國に追ひ到りて、和那美(わなみ)の水門(みなと)に網を張り、その鳥を取りて、持ち上りて獻りき。かれその水門に名づけて和那美(わなみ)の水門(みなと)といふなり。またその鳥を見たまへば、物言はむと思ほして、思ほすがごと言ひたまふ事なかりき。

垂仁天皇は尾張の相津に生えていた二俣榲を二俣の小舟に仕立てて都に運ばせて市師の池、輕の池に浮かべて、ホムチワケの御子を連れて遊んだ。ところがこの御子はヒゲが拳八つ分の長さになって胸にまで垂れるほどになっても言葉を話さなかった。あるとき、空高く飛ぶ白鳥が鳴くのを聞いて生まれて初めて「あ、あ」と声に出した。

そこで山邊のオオタカという人を遣して、その鳥をつかまえさせることにした。オオタカはその白鳥を追いかけて、紀伊から播磨に到り、さらに因幡を越え、丹波の但馬に到り、東の方にまわって、近江、美濃、尾張から信濃に入り、さらに越(北陸)に至ってワナミ(参考1、現在の新潟県燕市のあたりに伝説があるとのこと)に網をしかけ、その鳥をつかまえて大和に持ち帰って献上した。ワナミというのは仕掛けた羂網にちなんで付いた地名である。ホムチワケの御子がその鳥をみて何か言いたげだったがそれを口に出すことはなかった。

 ここに天皇患へたまひて、御寢(みね)ませる時に、御夢に覺(さと)してのりたまはく、「我が宮を、天皇(おほきみ)の御舍(みあらか)のごと修理(をさ)めたまはば、御子かならずま言(こと)とはむ」とかく覺したまふ時に、太卜(ふとまに)に占(うら)へて、「いづれの神の御心ぞ」と求むるに、ここに祟(たた)りたまふは、出雲(いづも)の大神の御心なり。かれその御子を、その大神の宮を拜(をろが)ましめに遣したまはむとする時に、誰を副(たぐ)へしめば吉(え)けむとうらなふに、ここに曙立(あけたつ)の王卜(うら)に食(あ)へり。かれ曙立(あけたつ)の王に科(おほ)せて、うけひ白さしむらく、「この大神を拜むによりて、誠(まこと)に驗(しるし)あらば、この鷺(さぎ)の巣(す)の池の樹に住める鷺を、うけひ落ちよ」と、かく詔りたまふ時に、うけひてその鷺地(つち)に墮ちて死にき。また「うけひ活け」と詔りたまひき。ここにうけひしかば、更に活きぬ。また甜白檮(あまがし)の前(さき)なる葉廣熊白檮(はびろくまがし)をうけひ枯らし、またうけひ生かしめき。ここにその曙立(あけたつ)の王に、倭(やまと)は師木(しき)の登美(とみ)の豐朝倉(とよあさくら)の曙立(あけたつ)の王といふ名を賜ひき。すなはち曙立(あけたつ)の王菟上(うながみ)の王二王(ふたはしら)を、その御子に副(たぐ)へて遣しし時に、那良戸(ならど)よりは跛(あしなえ)、盲(めしい)遇はむ。大阪戸よりも跛(あしなえ)、盲(めしい)遇はむ。ただ木戸ぞ掖戸(わきど)の吉き戸と卜(うら)へて、いでましし時に、到ります地(ところ)ごとに品遲部(ほむぢべ)を定めたまひき。

垂仁天皇は思い悩み寝ている間に夢をみた。ある神が「我が宮を天皇の宮のように立派に造れば御子は物言うようになるだろう」と言う。さていずれの神かと占へば出雲の大神、大国主のたたりであると出た。

そこでホムチワケの御子を出雲に参拝させようとするときに、誰を添えて遣わそうかと占うと、アケタツの王がよいと出た。そこでアケタツの王に誓約(アマテラスとスサノヲの誓約を参照)をさせることにした。「出雲の大神を拝むによって霊験ありというならば、この鷺の巣の池の木に住む鷺よ、落ちよ」と 叫ぶと、みごとに鷺は落ちて死んでしまった。また「生き返れ」と叫べば、鷺は生き返った。また、アマカシの前(参考1の注、奈良県高市郡飛鳥村)にあるカシの木を枯らしたり蘇生させたりした。

霊力ありと認められたアケタツの王に「倭は師木の登美の豐朝倉の曙立の王」という立派な名前が授けられた。

さてアケタツの王とウナガミの王をホムチワケの御子に添えて出雲に出発させるときに、奈良戸(平城山を越えて京都に入る道)、大阪戸(二上山を越えて大阪の河内に入る道)どちらを通っても跛、盲に遇うだろう。遠回りだが紀の川に沿って和歌山に出る道こそ幸先よしと占って出発し、通った所々にホムヂベの民を定めた(ホムチワケの御子の名にちなむ人民)。

 かれ出雲に到りまして、大神を拜(をろが)み訖(を)へて、還り上ります時に、肥(ひ)の河の中に黒樔(くろす)の橋を作り、假宮(かりみや)を仕へ奉(まつ)りて、坐(ま)さしめき。ここに出雲の國の造(みやつこ)の祖、名は岐比佐都美(きひさつみ)、青葉の山を餝(かざ)りて、その河下に立てて、大御食(おおみあへ)獻(たてまつ)らむとする時に、その御子詔りたまはく、「この河下に青葉の山なせるは、山と見えて山にあらず。もし出雲の石𥑎(いわくま)の曾(そ)の宮にます、葦原色許男(あしはらしこを)の大神をもち齋(いつ)く祝(はふり)が大庭か」と問ひたまひき。ここに御供に遣さえたる王(みこ)たち、聞き歡び見喜びて、御子は檳榔(あぢまさ)の長穗(ながほ)の宮にませまつりて、驛使(はゆまづかひ)をたてまつりき。

やがて出雲に到着して大国主大神に拝し、大和へ帰るときに、斐伊川に黒樔の橋(参考1の注、皮つきの木を組んで作った橋)を作り、仮宮を作ってホムチワケの御子の座所とした。

ここに出雲の国の造の祖でキヒサツミという者が、青葉の飾りを河下に山と飾って、御食事を奉ろうとしたところ、御子は突然口を開いて「この河下に青葉が山となるのは、山に見えて山ではないようだ。もしや出雲の石𥑎の曾の宮におわすアシハラノシコヲの大神(大国主の別名)を祀る神職の庭でもあろうか」と問われた。

これを聞いた共の王たちは、夢かと喜んで、御子の座所を檳榔の長穗の宮(参考1の注、ビロウの木の葉を長く垂れて葺いた宮)に移し奉り、大和に急使をたてた。

 ここにその御子、肥長比賣(ひながひめ)に一宿(ひとよ)婚(あ)ひたまひき。かれその美人(をとめ)を竊伺(かきま)みたまへば、蛇(をろち)なり。すなはち見畏みて遁(に)げたまひき。ここにその肥長比賣(ひながひめ)患(うれ)へて、海原を光(て)らして船より追ひ來(く)。かれ、ますます見畏みて山のたわより御船を引き越して、逃げ上りいでましつ。ここに覆奏(かえりごと)まをさく、「大神を拜(をろが)みたまへるに因りて、大御子(おほみこ)物詔(ものの)りたまひつ。かれまゐ上り來つ」とまをしき。かれ天皇歡ばして、すなはち菟上(うながみ)の王を返して、神宮を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子に因りて鳥取部(ととりべ)、鳥甘(とりかひ)、品遲部(ほむぢべ)、大湯坐(おほゆゑ)、若湯坐(わかゆゑ)を定めたまひき。

言葉をものにされたホムチワケの御子は愛のささやきも巧みにヒナガ姫という美女と一夜を共にされた。しかしその美女の寝姿をみれば蛇であった。しまったと思ったときにはもう遅い、逃げるしかない。ヒナガ姫はこれを恨んで海原を照しつつ船で追ってきた。これに総毛立った御子は山のなだらかな所から船を引き上げて、山を越して逃げ還った。

ここにアケタツの王とウナガミの王は垂仁天皇に事の次第を奏上して「出雲の大神を拝みましたところ霊験あらたかにて御子は言葉を話されるようになりました。よってここに帰参いたしました。」と申し上げた。

天皇はいたくお喜びになって、ウナガミの王を出雲に遣わして出雲大社を立派に再建させた。天皇はホムチワケの御子にちなんで、鳥取部(ととりべ)、鳥甘(とりかひ)、品遲部(ほむぢべ)、大湯坐(おほゆゑ)、若湯坐(わかゆゑ)を定めた。

(コメント) 品遲部(ほむぢべ)は上に既出。大湯坐、若湯坐は前回のサホ姫との会話にある。また鳥取の由来(の一つ)が今回明らかになったわけです。

鳥取県 - Wikipediaより

県名の起源にまつわる説話

「鳥取」の語は『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇に「鳥取造(ととりのみやつこ)」、「鳥取部(ととりべ)」が見える。

『古事記』には大和朝廷が諸国に鳥を捕らえさせ、これを税として納めるように命じていたという一節があり、当時、沼や沢の多い湿地帯であった鳥取平野で水辺に集まる鳥などを捕らえて暮らしていた狩猟民族が、大和国(現・奈良県)に政権ができてからその支配体系に組み込まれ、「鳥取部」として従属するようになり、そこからこの地が「鳥取」と呼ばれるようになったとされる[4]。

『日本書紀』垂仁天皇二十三年九月から十一月の条にかけて「鳥取」の起源説話が見える。誉津別王子(ほむつわけのみこ)が成人しても言葉が喋れないことを天皇が憂いていた時、大空を白鳥が飛んでいるのを見つけ「是何物ぞ」と発した。天皇、喜びて、その鳥の捕獲を命じた。天湯河板挙(あまのゆかわたな)が鳥を追いつづけ各地を巡り、ついに出雲の地(現在の島根県安来地方だという説が有力。)で捕獲に成功した。この功績から「鳥取造」の称号(姓=かばね)を拝命した。『古事記』にも同類の説話が見えるが、結末が違っている。

『和名類聚抄』の因幡国邑美(おうみ)郡の五郷の一つに鳥取がある。この郷名は上述の垂仁天皇の王子本牟智和気御子(ほむちわけみこ)のために設置された鳥取部に由来する。この辺り一帯が沼地で、全国の白鳥伝説との関連が取り上げられている。文書のうえでは、天慶3年(940年)の因幡国高草郡東大寺領高庭庄坪付注進状(東南院文書)に「主張鳥取高俊」(郡司と推定)の署名が初見である[5]。