参考1: 校註 古事記 - 青空文庫
参考2: 現代語譯 古事記 - 青空文庫

昨年からの懸案だった古事記を少しずつ学ぶことにしました。基本は参考1の校註 古事記 - 青空文庫になります。

現代語訳は読んだことはありますが記憶が薄れていることもあり最初からボチボチやっていくつもりです。

進め方としては要約、抜き書き、自分の感想や疑問などを記していくという形でいきます。

2、3年でできればいいかなと思いますがどうなりますやら。


序文は三段からなる。気になった部分のみ抜き出す。

編者である太安万侶(おおのやすまろ)の元明天皇に献上の辞。

第三段より

ここに舊辭の誤り忤たがへるを惜しみ、先紀の謬(あやま)り錯(あやま)れるを正さまくして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔して、稗田の阿禮が誦める勅語の舊辭を撰録して、獻上せよと宣りたまへば、謹みて詔の旨に隨ひ、子細に採りひりひぬ。

現代語訳

そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。

この部分の冒頭の「…を惜しみ」の主語は元明天皇。和銅四年は西暦711年。原文だと字が難しいが帝紀と本辞(舊辭)というのは古事記 - Wikipediaから引用しておきますと(本辞が旧辞になっているが)

『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬の殯の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。

『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。

とある。

古事記は元明天皇に献上されたものであるが、もともとは天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に正しい帝紀と旧辞をしっかり勉強しておきなさいということを命じて、しばらくしてから太安万侶が稗田阿礼から聞いたものを編集したということである。

序文第二段より

ここに天皇詔したまひしく、「朕聞かくは、諸家のもたる帝紀と本辭(ほんじ)と既に正實(せいじつ)に違ひ、多く虚僞を加ふといへり。今の時に當りて、その失を改めずは、いまだ幾年いくとせを經ずして、その旨滅びなむとす。こはすなはち邦家の經緯、王化の鴻基(こうき)なり。故かれここに帝紀を撰録し、舊辭(くじ)を討覈(たうかく)して、僞を削り實を定め、後葉(のちのよ)に流つたへむと欲(おも)ふ」と宣りたまひき。時に舍人(とねり)あり、姓は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年は二十八。人となり聰明にして、目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)す。すなはち阿禮に勅語して、帝皇の日繼(ひつぎ)と先代の舊辭とを誦み習はしめたまひき。然れども運(とき)移り世異にして、いまだその事を行ひたまはざりき。

現代語訳

ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。

稗田阿礼という人物は超記憶力の人だったようです。

古事記全体について一つ重要と思われる点は、また第三段に戻って

然れども上古の時、言と意と並(みな)朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字にはすなはち難し。已(すで)に訓に因りて述ぶれば、詞は心に逮(いた)らず。全く音を以ちて連ぬれば、事の趣更に長し。ここを以ちて今或るは一句の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或るは一事の内に、全く訓を以ちて録(しる)しぬ。すなはち辭理の見えがたきは、注を以ちて明にし、意況の解き易きは更に注(しる)さず。

古事記で使われている漢文は「変体漢文」という。「かな」の成立以前なので大和言葉の表記という点での苦労があったという。

漢文は和文で読める?より引用

 さて『古事記』は、本文は日本語に引きずられてやや不自然な表現の見られる変体漢文(和製英語のようなものと思えばいいでしょう)ですが、「~を」という目的語は動詞の後ろに置かれるなど、古典中国語の文法のごく基本的なところはよく守られています。ですから少し手を入れれば、そのまま中国語訳として使えるくらいです。序文は4字と6字の対句で構成された完璧な古典中国語の美文(駢文あるいは四六駢儷文と呼ばれます)で、中国人が読んでも日本人が書いたとは信じないほどのものです。しかし歌謡などどうしても日本語の音のまま伝えたい箇所は、音仮名による表記が行われています。そして太安万侶は音仮名で書いた箇所にはその旨古典中国語の文で注をつけ、固有名詞の部分も訓仮名を基本としながら、音仮名を用いたところや、訓仮名でも一般名詞や動詞と間違えそうな箇所にはその旨注をつけるという配慮を忘れていません。これは言うまでもなく読者の便宜を図ってのことです。

さて古事記成立の背景ですが、古事記は神代から推古天皇までの記録であって推古天皇が崩御するのが西暦628年。このころから蘇我氏の専横というのが問題になっていてやがて乙巳の変(西暦645年)、大化改新につながっていくという内政の激変と白村江(はくすきのえ)の戦いの敗北(西暦663年)という古代日本における内外の激変を経て成立しているという点は注目すべきところだと思われる。

すなわち当時における日本再生の一環であったと推測できる。

現在(西暦2018年)は当時とちょうど似た状況とも思えるので古事記を今読むというのはタイムリーではないだろうか。今や電子書籍で古事記を読む時代であるというのもまた面白いところであります。