参考1: 校註 古事記 - 青空文庫
参考2: 現代語譯 古事記 - 青空文庫

断りのない引用は参考1からのものです。

今回は長くまた和歌が多いので時間がかかりました。参考2とは解釈が違うところもあります。


今回で東征の戦いが終り、神武天皇の即位となります。

前回、カムヤマトイワレビコの軍勢は熊野に上陸して天津神の遣わした八咫烏の導きにより宇陀に至りました。

 かれここに宇陀に、兄宇迦斯(えうかし)弟宇迦斯(おとうかし)と二人あり。かれまづ八咫烏を遣はして、二人に問はしめたまはく、「今、天つ神の御子幸でませり。汝(いまし)たち仕へまつらむや」と問ひたまひき。ここに兄宇迦斯(えうかし)、鳴鏑(なりかぶら)もちて、その使を待ち射返しき。かれその鳴鏑の落ちし地(ところ)を、訶夫羅前(かぶらざき)といふ。「待ち撃たむ」といひて、軍(いくさ)を聚めしかども、軍をえ聚めざりしかば、仕へまつらむと欺陽(いつは)りて、大殿を作りて、その殿内(とのぬち)に押機(おし)を作りて待つ時に、弟宇迦斯(おとうかし)まづまゐ向へて、拜(をろが)みてまをさく、「僕(あ)が兄兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚むれども、え聚めざれば、殿を作り、その内に押機(おし)を張りて、待ち取らむとす、かれまゐ向へて顯はしまをす」とまをしき。ここに大伴(おおとも)の連(むらじ)等が祖道(みち)の臣(おみ)の命、久米(くめ)の直(あたへ)等が祖大久米(おほくめ)の命二人、兄宇迦斯(えうかし)を召(よ)びて、罵(の)りていはく、「儞(い)が作り仕へまつれる大殿内(とのぬち)には、おれまづ入りて、その仕へまつらむとする状を明し白せ」といひて、横刀(たち)の手上握(たがみとりしば)り、矛(ほこ)ゆけ矢刺して、追ひ入るる時に、すなはちおのが作れる押機(おし)に打たれて死にき。ここに控(ひ)き出して斬り散(はふ)りき。かれ其地(そこ)を宇陀の血原といふ。然してその弟宇迦斯(おとうかし)が獻れる大饗(おほみあへ)をば、悉にその御軍(みいくさ)に賜ひき。この時、御歌よみしたまひしく、

宇陀にエウカシ、オトウカシという二人がいた。カムヤマトイワレビコは八咫烏を遣わして二人に「今、この地に天津神の御子がお出でになっている。そなたたちはお仕え申し上げないか」と問わしめた。その返礼としてエウカシは鳴鏑(矢の先端につけると音が鳴る)をもって八咫烏を追い返した。その鳴鏑が落ちたところをカブラザキ(場所は不明)という。

エウカシはカムヤマトイワレビコの軍を迎え撃とうと激をとばし兵を集めようとしたが大して集まらなかった。そこで一策を講じて「お仕え申し上げる」と偽りの使者を送り、カムヤマトイワレビコを招く大殿を作りその内部に彼を殺すような細工をして手ぐすねひいて待ち構えていた。

その間にオトウカシはカムヤマトイワレビコの陣に駆け込み、伏し拝んで「兄のエウカシの偽計に乗り給うな」と申し上げた。

そこで大伴の連(むらじ)の祖、道臣(みちのおみ)の命、久米の直(あたへ)らの祖、大久米の命、の二人はエウカシを召しよせて「お前の造った大殿にはまずお前が入ってみせよ。お仕え申し上げるという心根を明らかにせよ」と罵って言う。そして太刀の柄を握り、矛をふるい、矢をつがえて追いかけるとエウカシは自分のつくった仕掛けに撃たれて死んでしまった。さらにその死体を引きずりだしてズタズタにしてしまった。ゆえにその地を宇陀の血原という。

然して弟のオトウカシは饗宴をととのえてカムヤマトイワレビコに献上した。またすべての将士にこれを分かち与えた。このとき、カムヤマトイワレビコは上機嫌で歌を詠んだ。

宇陀の 高城(たかき)に 鴫羂(しぎわな)張る。
我が待つや 鴫は障(さや)らず、
いすくはし 鷹(くぢ)ら障(さや)る。
前妻(こなみ)が 菜(な)乞はさば、
立柧棱(たちそば)の 實(み)の無けくを
こきしひゑね。
後妻(うはなり)が 菜(な)乞はさば、
柃實(いちさかきみ)の大けくを
こきだひゑね  (歌謠番號一〇)

宇陀の高台にシギの罠を張る

待てども待てども(大人しい)シギはかからず

かかったのは(獰猛な)鷹であったとさ

古妻が欲しがれば

そばの実のように少しだけくれてやれ (或いは「何も与えるな」?)

新妻が欲しがれば

ヒサカキの実のように沢山くれてやれ

(コメント) 前半はエウカシの拙策のこととわかるが、後半は前妻がエウカシ、後妻がオトウカシに対応するのだろうか。「そばの実」は「少し」にかかり、「ヒサカキの実」は「多い」にかかる。

 ええ、しやこしや。こはいのごふぞ。ああ、しやこしや。こは嘲咲(あざわら)ふぞ。

かれその弟宇迦斯、こは宇陀の水取(もひとり)等が祖なり。

皆は歌にあわせて嘲り笑う。このオトウカシは宇陀の水取りらの祖である。

 其地(そこ)より幸でまして、忍坂(おさか)の大室に到りたまふ時に、尾ある土雲(つちぐも)八十建(やそたける)、その室にありて待ちいなる。かれここに天つ神の御子の命もちて、御饗(みあへ)を八十建(やそたける)に賜ひき。ここに八十建に宛てて、八十膳夫(かしはで)を設(ま)けて、人ごとに刀(たち)佩けてその膳夫(かしはで)どもに、誨(おし)へたまはく、「歌を聞かば、一時に斬れ」とのりたまひき。かれその土雲を打たむとすることを明して歌よみしたまひしく、

さて軍勢はそこから進んで忍坂の大室(参考1の注に奈良縣磯城郡、泊瀬溪谷の入口とある)に到ったときに、土雲(つちぐも)といわれる尻に尾があり洞窟を住処としている種族が多く待ちかまえていた。彼らを八十建(やそたける)という。カムヤマトイワレビコは一計を立て彼らを宴に招くことにした。すなわち彼ら各々に刀を佩いた配膳人をつけ、その配膳人には「歌を聞いたら一挙に切れ」と言い含めておいた。そして詠んだ歌:

忍坂(おさか)の 大室屋に
人多(さわ)に 來(き)入り居り。
人多に 入り居りとも、
みつみつし 久米の子が、
頭椎(くぶつつ)い 石椎(いしつつ)いもち
撃ちてしやまむ。
みつみつし 久米の子らが、
頭椎(くぶつつ)い 石椎(いしつつ)いもち
今撃たば善(よ)らし。  (歌謠番號一一)

忍坂(おさか)の大室屋に

人がわんさか居るそうな

わんさか居るが

久米部の豪の者らが

槌のような柄頭の太刀で

撃ってしまうぞ。

久米部の豪の者らが

槌のような柄頭の太刀で

今ぞ、撃て。

(コメント) 久米部というのは古代日本の軍事的な職業部。久米部 - Wikipediaを参照。「久米直(くめのあたへ、上で既出)が伴造(とものみやつこ)として管掌してきたもので、のちに久米直とともに大伴連の統率下に入った。中国・四国地方に分布し、宮廷の警衛・軍事にあたった」とある。現在でも残る久米という地名はこれに由来するとのこと。

 かく歌ひて、刀を拔きて、一時に打ち殺しつ。

 然ありて後に、登美毘古を撃ちたまはむとする時、歌よみしたまひしく、

このように歌い、刀を抜いて一撃必殺、打ち殺してしまった。

そして後に(五瀬の命の仇)トミビコ(ナガスネビコ)を撃とうとする時に詠んだ歌:

みつみつし 久米の子らが
粟生(あはふ)には 臭韮(かみら)一莖(もと)、
そねが莖(もと) そね芽繋(めつな)ぎて
撃ちてしやまむ。  (歌謠番號一二)

久米部の豪の者らが

粟の畑に臭い韮が一本

その根も葉も一類ものとも

撃ち滅ぼしてしまえ。

 また、歌よみしたまひしく、

また歌を詠んで

みつみつし 久米の子らが
垣下(もと)に 植(う)ゑし山椒(はじかみ)、
口ひひく 吾(われ)は忘れじ。
撃ちてしやまむ。  (歌謠番號一三)

久米部の豪の者らが

垣もとに植えた山椒を噛んで

口はひりひり、恨みは忘れじ

必ず撃て。

 また、歌よみしたまひしく、

さらに歌を詠んで

神風(かむかぜ)の 伊勢の海の
大石(おいし)に はひもとほろふ
細螺(しただみ)の、いはひもとほり
撃ちてしやまむ。  (歌謠番號一四)

神風吹く伊勢の海の

磯の大石に這いまわる

キサゴ(ニシキウズガイ科の巻き貝)のように敵を包囲して

殲滅せよ。

(コメント) この3つの歌とともにカムヤマトイワレビコの軍は五瀬の命の仇であるトミビコ(ナガスネビコ)を撃破した、と解釈した。参考2とは見解を異にしている。

 また兄師木(えしき)弟師木(おとしき)を撃ちたまふ時に、御軍暫(しまし)疲れたり。ここに歌よみしたまひしく、

さらに大和地方の平定のためエシキ、オトシキなるものを征伐するときに、カムヤマトイワレビコの軍は攻めあぐねて食料も尽き、疲れてしまった。そこで歌を詠んで

楯並(たたな)めて 伊那佐(いなさ)の山の
樹(こ)の間よも い行きまもらひ
戰へば 吾(われ)はや飢(ゑ)ぬ。
島つ鳥 鵜養(うかひ)が徒(とも)、
今助(す)けに來ね。  (歌謠番號一五)

イナサの山に陣を敷き

樹々の間より出撃し、また守り

戦えば、いよいよ兵糧が尽きてしまった。

島にいる鵜飼のものどもよ

今こそ助けにきてくれ。

(コメント) 「神武天皇 - 熊野より大和へ」のところで「ニヘモツの子」という阿陀の鵜養(うかい)の祖が既出である。

 かれここに邇藝速日(にぎはやび)の命まゐ赴(む)きて、天つ神の御子にまをさく、「天つ神の御子天降(あも)りましぬと聞きしかば、追ひてまゐ降り來つ」とまをして、天つ瑞(しるし)を獻りて仕へまつりき。かれ邇藝速日(にぎはやび)の命、登美毘古が妹(いも)登美夜毘賣(とみやびめ)に娶(あ)ひて生める子、宇摩志麻遲(うましまぢ)の命。(こは物部の連(むらじ)、穗積の臣(おみ)、婇(うねめ)臣が祖なり。)かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向(ことむ)けやはし、伏(まつろ)はぬ人どもを退(そ)け撥(はら)ひて、畝火(うねび)の白檮原(かしはら)の宮にましまして、天の下治らしめしき。

するとニギハヤヒの命が馳せ参じてカムヤマトイワレビコに申上げるには「天津神の御子が地に降りられたと耳にして、あとを追ってまいりました」、そして天津神の子孫のしるしである宝物をカムヤマトイワレビコに奉って仕えることとなった。このニギハヤヒの命がトミビコの妹、トミヤビメと結婚して生んだ子が、ウマシマヂの命である。(これは物部の連(モノベノムラジ)、穗積の臣(ホヅミノオミ)、婇臣(ウネメノオミ)の祖である。)

このようにして荒ぶる神々を鎮め逆らう者どもを退けて、カムヤマトイワレビコの命は畝火(うねび)の白檮原(かしはら)の宮に居を定め天下を治めた。

(コメント) 神武天皇というのは後世の諡(おくり名)で、淡海三船(おうみのみふね)が神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号を選定したといわれている。

戦いの記述が和歌であるというのもいかにも日本的ですが、東征はかなりの苦戦の連続、大事業であったと推察されます。