参考1: 校註 古事記 - 青空文庫
参考2: 現代語譯 古事記 - 青空文庫

断りのない引用は参考1からのものです。

某所の桜

次の元号が「令和」と決まりました(5月1日より)。令和天皇は第126代となります。ちょうどいま初代の神武天皇のところをやっていますが、今後「神」や「武」という文字が元号に使われることはあるでしょうか。使われるとすれば現在とは根本的に世の中が変わっているはずですね。


前回、カムヤマトイワレビコの命(神武天皇)は紀の国の男の水門において兄のイツセの命を失いました。

 かれ神倭伊波禮毘古の命、其地より𢌞り幸でまして、熊野の村に到りましし時に、大きなる熊、髣髴(ほのか)に出で入りてすなはち失せぬ。ここに神倭伊波禮毘古の命倐忽(にはか)にをえまし、また御軍も皆をえて伏しき。この時に熊野の高倉下(たかくらじ)、一横刀(たち)をもちて、天つ神の御子の伏(こや)せる地(ところ)に到りて獻る時に、天つ神の御子、すなはち寤(さ)め起ちて、「長寢(ながい)しつるかも」と詔りたまひき。かれその横刀(たち)を受け取りたまふ時に、その熊野の山の荒ぶる神おのづからみな切り仆(たふ)さえき。ここにそのをえ伏せる御軍悉に寤め起ちき。かれ天つ神の御子、その横刀(たち)を獲つるゆゑを問ひたまひしかば、高倉下答へまをさく、「おのが夢に、天照らす大神高木の神二柱の神の命もちて、建御雷(たけみかづち)の神を召(よ)びて詔りたまはく、葦原の中つ國はいたく騷(さや)ぎてありなり。我が御子たち不平(やくさ)みますらし。その葦原の中つ國は、もはら汝(いまし)が言向(ことむ)けつる國なり。かれ汝建御雷の神降(あも)らさね」とのりたまひき。ここに答へまをさく、「僕(やつこ)降らずとも、もはらその國を平(ことみ)けし横刀あれば、この刀(たち)を降さむ。(この刀の名は佐士布都の神といふ。またの名は甕布都の神といふ、またの名は布都の御魂。この刀は石上の神宮に坐す。)この刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂(むね)を穿ちて、そこより墮し入れむとまをしたまひき。かれ朝目吉(よ)く汝取り持ちて天つ神の御子に獻れと、のりたまひき。かれ夢の教のまにま、旦(あした)におのが倉を見しかば、信(まこと)に横刀(たち)ありき。かれこの横刀をもちて獻らくのみ」とまをしき。

カムヤマトイワレビコの命は(船で紀伊半島を南に)回って熊野の村に上陸したときに大きな熊が急に現れてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコは気を失い、従う兵たちも気を失ってしまった。さてこの時に熊野にタカクラジという者があり一振りの太刀をもって気を失っているカムヤマトイワレビコのもとに駆けつけた。そしてその太刀を捧げるとカムヤマトイワレビコはすぐに目を覚まし「不覚にも長く気を失っておったようだ」と言った。その太刀を受けとると不思議なことに熊野の山の荒ぶる神々はおのずから倒れ、兵たちは目を覚ました。

カムヤマトイワレビコがその太刀の由来を問えば、タカクラジは「私の夢に天照大御神と高木の神(高御産巣日の神)が現れ給いタケミカヅチの神を呼びよせて仰るには、葦原の中つ国はずいぶんと騒がしいようだ。我が御子たちが難儀しておる。この葦原の中つ国はそなたが平定した国である。ゆえに汝タケミカヅチの神、地に降りよ」と仰りました。タケミカヅチの神はそれに答えて「私が降らずとも、その地を平定した際に用いた太刀があります。この太刀を降しましょう。(この刀の名はサジフツの神、またの名はミカフツの神、またの名はフツの御魂という。この刀はイソノカミの神宮に御座す。)この刀を降ろすには、タカクラジの倉の棟木を穿ってその穴から落し入れましょうと仰いました。そしてタケミカヅチの神は私に向かい、目を覚ましたらその太刀を取って天津神の御子に奉れと仰いました。その夢の教えの通りに朝になって倉を見ればまことにこの太刀がございました。ゆえにこの太刀を奉るのです」と言った。

 ここにまた高木の大神の命もちて、覺(さと)し白したまはく、「天つ神の御子、こよ奧つ方にな入りたまひそ。荒ぶる神いと多(さは)にあり。今天より八咫烏(やたがらす)を遣(つか)はさむ。かれその八咫烏導きなむ。その立たむ後(しりへ)より幸でまさね」と、のりたまひき。かれその御教(みさとし)のまにまに、その八咫烏の後より幸(い)でまししかば、吉野(えしの)河の河尻に到りましき。時に筌(うへ)をうちて魚(な)取る人あり。ここに天つ神の御子「汝(いまし)は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕(あ)は國つ神名は贄持(にへもつ)の子」とまをしき。(こは阿陀の鵜養の祖なり。)其地(そこ)より幸でまししかば、尾ある人井より出で來。その井光れり。「汝は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕は國つ神名は井氷鹿(ゐひか)」とまをしき。(こは吉野の首等が祖なり。)すなはちその山に入りまししかば、また尾ある人に遇へり。この人巖(いわほ)を押し分けて出で來(く)。「汝は誰そ」と問はしければ、答へ白さく、「僕は國つ神名は石押分(いはおしわく)の子、今天つ神の御子幸(い)でますと聞きつ。かれ、まゐ向へまつらくのみ」とまをしき。(こは吉野の國巣が祖なり。)其地(そこ)より蹈み穿ち越えて、宇陀(うだ)に幸でましき。かれ宇陀(うだ)の穿(うがち)といふ。

さらにカムヤマトイワレビコの夢にも高木の大神が現れて御言葉をもって「天津神の御子よ、ここより奥には入り給うな。荒ぶる神々が多く待ち構えておるぞ。いま天より八咫烏を遣わそう。後をついていけば導いてくれようぞ」と訓した。

そこでその教えの通りに八咫烏の後をついていくと吉野の河の下流に出た。そこに竹籠の仕掛けで魚を取る人がいた。カムヤマトイワレビコが「そなたは何者か」と問えば「わたしは国津神で名はニヘモツの子」と答えた。(これは阿陀の鵜養(うかい)の祖である。)

そこからさらに進むと尾のある人が井から出てきた。その井は光った。「そなたは何者か」と問えば、「わたしは国津神、名はイヒカ」と答えた。(これは吉野の首等(おびとら)の祖である。)

山に入っていくと、また尾のある人に出会った。この者は巌を押し分けて出てきた。「そなたは何者か」と問えば、「わたしは国津神、名はイハオシワクの子、いま天津神の御子がいらっしゃると聞きましたのでお迎えに参上したのです」と答えた。(これは吉野の国巣(クズ)の祖(注1)である。)

そこから道なき道を踏破して宇陀に到着した。そこを宇陀の穿(注2)という。

(注1) 国巣 - Wikipediaによれば「 国栖(くず、くにす)とは大和国吉野郡、常陸国茨城郡に居住したといわれる住民である。国巣、国樔とも書く。 」とある

(注2) 國學院大學 古事記学センターによると「奈良県宇陀市菟田野宇賀志221」とある。

ちょっと長くなったのでフツの御魂や八咫烏については次の記事にまわそうと思います。