参考1: 校註 古事記 - 青空文庫
参考2: 現代語譯 古事記 - 青空文庫

断りのない引用は参考1からのものです。


東征の戦いの記述はこの節からです。前回は速水の門まで来ましたが、その場所については特定できていません。瀬戸内沿いのどこかの国としておきます。

 かれその國より上り行(い)でます時に、浪速(なみはや)の渡(わたり)を經て、青雲の白肩(しらかた)の津に泊(は)てたまひき。この時に、登美(とみ)の那賀須泥毘古(ながすねびこ)、軍を興して、待ち向へて戰ふ。ここに、御船に入れたる楯を取りて、下(お)り立ちたまひき。かれ其地(そこ)に號けて楯津(たてづ)といふ。今には日下(くさか)の蓼津(たでづ)といふ。ここに登美毘古と戰ひたまひし時に、五瀬の命、御手に登美毘古が痛矢串(いあたやぐし)を負はしき。

さてその国から上っていき、浪速の渡(注1)を経て青雲の白肩の津(注2)に船をつけた。このとき登美のナガスネビコが軍をおこして待ち構えていた。そこでカムヤマトイワレビコの命、イツセの命たちは御船から盾を取りだして陸に降り立った。それでその地を楯津(たてづ)というようになり、今では日下の蓼津(くさかのたでづ)という。ここにトミのナガスネビコと戦ったときに、イツセの命は手に矢傷を負った。

注1:参考1の注に「難波の渡。當時は大阪灣が更に深く灣入し、大和の國の水を集めた大和川は、河内の國に入つて北流して淀川に合流していた。それを溯上して河内に入つたのである。」とある。

注2:大阪湾から河川を遡って、その後の登美という地名から生駒山と西大寺の間くらいだろうか。

かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戰ふことふさはず。かれ賤奴(やつこ)が痛手を負ひつ。今よは行き𢌞りて、日を背に負ひて撃たむ」と、期(ちぎ)りたまひて、南の方より𢌞り幸でます時に、血沼(ちぬ)の海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。かれ血沼の海といふ。其地(そこ)より𢌞り幸でまして、紀の國の男(を)の水門(みなと)に到りまして、詔りたまはく、「賤奴(やつこ)が手を負ひてや、命すぎなむ」と男健(をたけび)して崩(かむあが)りましき。かれその水門(みなと)に名づけて男(を)の水門(みなと)といふ。陵(みはか)は紀の國の竈山(かまやま)にあり。

そこで「自分は日の神の御子として日に向って戦うのは相応くなかった。それで下郎に痛手を負わされたのだ。今度は回りこんで日を背にして撃ってくれよう」と心に決めて、南の方から回ってきたときに、血沼の海に到って手の血を洗い流した。それでここを血沼の海という。そこからさらに進んで紀の国の男の水門に着いたときに傷が悪化していたイツセの命は「下賎な者のために傷を負って命を失うことになるとは!」と男たけびして果てた。それでこの水門を男の水門という。陵は紀の国の竈山にある。