いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす(ん)
色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず

いろは歌はもちろん知ってはいたのですが、これが神道の祝詞であるということを浅学にして最近まで知らなかったのです。

仏教的な無常観を感じるという向きも多いだろうし自分もそう思っていた。

いろは歌 - Wikipediaから少し引用しておきますと

文中の「有為」は仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物。転じて有為の奥山とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものである[3]。

中世から現代にいたるまで各種の解釈がなされてきたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい」などと、仏教的な無常を歌った歌と解釈してきた。12世紀の僧侶で新義真言宗の祖である覚鑁は『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中でいろは歌の注釈を記し、いろは歌は『涅槃経』の中の無常偈(むじょうげ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある)の意訳であると説明した。

しかし語句の具体的な意味については諸説ある。前述の『悉曇輪略図抄』においては「いろは」は「色は」ではなく「色葉」であり、春の桜と秋の紅葉を指すとする。また清音か濁音かにより文の意味は異なるが、悉曇輪略図抄は「あさきゆめみし」の「し」は「じ」と濁音に読み、すなわち「夢見じ」という打消しの意であるとする。一方『密厳諸秘釈』はこの「し」を清音に読み、助動詞「き」の連体形「し」としている。17世紀の僧観応の『補忘記』(ぶもうき)では最後の「ず」以外すべて清音とするなど、この歌は古文献においても清濁の表記が確定していない。「夢」や「酔」が何を意味するかも多様な解釈があり、結局のところ文脈についての確定した説明は、現時点では存在しない。

要するに良くわかっていない。

祝詞として「いろは祝詞」で検索すると神道系のサイトがたくさんヒットするはずなので解説はそちらに譲るとして、意味は分からないまでも口ずさんでみると綺麗だと感じるので置いておくのです。

ところでITシステムで例えば銀行とか航空会社のシステムのようなものでも正常に稼動するかどうかは今だに神頼みというのも笑えない話ではあります。